まだまだ書評の書き方は模索中。
どうやって書くのがよいのか、、
(ちなみにこの本は新潟で滝行の前後に読んだ本)
せっかく滝に打たれるのだから、
禅の世界を知った上でイメージを持ちたかった。
結果からすると、悟りとか絶対的一者とか
本を読んで滝に打たれたけど全然分からない。
万物は隔てなく一つであり、空間の感覚も、時間の経過の感覚もない。自己とそれ以外の世界との間に境界はない。そもそも、主義的な自己というものがなく、絶対的な合一の感覚だけがある。思想もなく、感覚もない。心に自我はなく、純粋な、未分化の気づきとして存在している。
これが著者が行っている悟りの状態。
これを見てちょっと思い当たることがあるのは、
「怖い・冷たい・寒い」という感覚が消える瞬間があったということ。
服を脱いで歩いているときは寒くて仕方なかったけど、
滝に打たれる直前、そういった感覚が消えた。
たしかに思い返してみると時間や空間の感覚がなくて、
滝に打たれている時は感覚があったかもしれない。
(意識が朦朧としてただけかも・・・笑)
また、著者は学問的な造詣も深くて
自分のこと(禅)も西洋的な哲学にも相当精通している。
一般的に修行している人は視野が狭くなっていくものだと思いきや
ここまで客観的に見ることができることに実は一番学びがあったかも;
以下は人生に対する気づき。
ロゴスから出発する彼ら(西欧人)は自己や世界を「分かる」ことにしないと気がすまない。
しかし我々東洋人には、世界の根源をカオスと見るタイオイズム(道教)がある。
今の世の中に対する違和感のヒントがあった。
東洋人は元来、身体を全的に捉えていた。
だから、なんでも切り離して考えようとする西洋的考え方(資本主義とか)は合わないのか!?
実際に現れる自己は理性でも感情でもなく、習慣によって動くものだし、思考も習慣どおりしている。
禅はあくまで生活から離れないのだ。
どんなによいことをインプットしても習慣化されないと一瞬でなくなるし、
逆に習慣を作っていけば自己も変わっていく。
一日一日は独立しており、一瞬一瞬は一つの流れとして繋がっていないのだから
「今」に力強く立つことからすべてははじまるのである。
ここでブログのタイトル「Carpe Diem」とつながった!笑
もともと善悪の判断じたいが人間の勝手なものだし、
結果なんていつどこに顕れるか分からないのだから、
そんなものを期待して「今」という時間を殺すな。
因でもあり、同時に果でもある瞬間として「今」を味わい尽くせとおっしゃるのである。
ああ、なんと素敵なんだ。
因果を否定しているわけやけど、結果的には「原因と結果の法則」と同じことですね。
現在という瞬間が一切の過去や未来から独立した時間であると意識的に思いつつも
その現在を成り立たせている無限の過去の「因」に感謝を忘れない。
日本語には「お陰様」という言葉がある。
「陰」とは見尽くせない因であり、それにわざわざ「お」と「様」をつけているのだ。
日本語ってすばらしい。
こんな素晴らしい思想を持っていて、どうして今の日本で自殺をしなければならないのか。
心は形あるものを探すって感じのことが書いてあったけど、
人はみんなそういう弱さ?を持っていて、
そこに依存していくと生きづらい世の中があるのか。
今日先生と話したこととも通ずることがあるな。
深いテーマだ 。
2008年2月21日木曜日
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